トップページ > 地域とともに > 熊西の歴史
地域の歴史
  • 黒崎の航空写真
  • 熊西の歴史
  • 熊西の風景
  • 八幡の地図
  • 北九州の古地図



  • 昭和58年11月  山本文雄著「熊西の歴史」より抜粋


    1.熊西とは

     「熊西」と言うのは地名ではない。地域あるいは地区の呼称である。わかり易く言えば熊手の西方にあるから熊西という。熊西という呼称は明治30年黒崎村が黒崎町になってから、行政の便利上からつけられたようである。即ち熊手を二つの区に分け、西の方を熊西区と呼んだ。

    1)昔の熊西
    大正初期の熊西の集落は、山寺、貞元、新地でその戸数は新地52戸・山寺12戸・貞元10戸程度であった。地域の範囲は筒井ー曲里ー小鷺田ー茶売ー萩原ー皇后崎となっていた。  
    昭和12年に着手した区画整理の竣工碑には、熊西のことを次のように誌している。  
    「本組合の地域は東方、旧長崎街道より西方は元上津役村境の山系を区域とし、広さ二十八万坪、所有者二百六十二人、地域内は田畑山林が多く、宅地は僅かに国道添いにあるのみで、昭和9年三菱化成工場の建設と共に社宅地区の要望もあり.・・・・・・・」とある。  
    新地は大正6年三菱合資会社(明治26年設立)が、製鉄所を建設する目的で家屋および田地を買収しそのため大正8年貞元へ移転した集落である。現在の三菱化成黒崎工場のあるところである。

    2)今の熊西
    現在、熊西と言う町名のついた町は、熊西一丁目、二丁目のみで、熊西と称する建物は、熊西小学校(曲里)熊西中学校(山寺)、熊西公民館(行部田)、熊西郵便局(筒井)などである。熊西公民館の管轄地域は昔の熊西の地域とあまり変わらない。

    2.原始時代の熊西(縄文時代)

    徳川時代の初期以前の黒崎一帯の地形で、明確な形を今にとどめているのは岸の浦である。昔、岸の浦は長尾台地(岡田神社のあるところ)と筒井台地に挟まれた入江であり、湿地帯であった。黒崎で一番早く人の住みついたところは、この筒井台地で熊西の山寺と貞元ではないかと思われる。
    これを証明するのが、黒崎貝塚であろう。熊西郵便局から東に入った道路の隅に遺跡の石碑が立っている。

    1)黒崎貝塚
    この貝塚は昭和6年、黒崎駅前区画整理工事中、名和羊一郎氏によって発見されたものである。発見された遺物は縄文式土器であり実年代は、3500年前と推定される。土器の他貝類と石器も出土している。
    原始時代の岸の浦は入江で、干潮時は干潟をなしていたと推定される。ここに住みついた山寺の人びとはこの干潟で貝や魚を取り、筒井の台地や上津役の原野では、イノシシやシカを狩って生活をたてていたようである。

    2)山寺遺跡
    日本化成(三菱化成の前身)社宅内で後期弥生式土器や須恵器が出土したこと、また王子神社(現在の一宮神社)の東側民家付近で、昭和12年遠賀川武士器や石斧、石鏃が発掘されている。

    3)皇后崎古墳
    古墳時代は、今からおよそ1500年前であり、皇后崎で皇后崎古墳と呼ばれるものが発見されている。
    砂岩の丘陵をくりぬいて、家の型に作った刳抜横穴式で土器、金環、玉などが出土したそうである。
    以上のことから古代より山寺は人の住む絶好の条件を持った土地であり、米を作り生活していたことがわかる。

    3.近世の山寺、貞元

    1)黒崎城と山寺、貞元
    慶長5年(西暦1600年)関が原の合戦の後、黒田長政が筑前の領主に封じられその家臣井上之房が黒崎に端城を築いた。慶長9年のことである。
    黒崎城は元和元年(1615年)一国一城の令により廃城となり、その間僅か12年である。もともと黒崎城は豊前領との国境を守るために築城されたものである。廃城にはなったけれども、黒崎が小倉との境に近い町であることから重視され、構口(カマヘグチ)を開き、番所を設けた。いわゆる関所が置かれた。黒崎宿が宿駅として殷賑を極めたのは寛永(1624~1643年)に入ってからである。
    黒崎城の築城、関所の開設で田地を整地してできたのが田町であるといわれてる。熊手の本村は山寺、貞元で菊竹村と呼ばれ、この時代に熊手に移住したと言われている。藤田村は花尾山のふもと上の銘から現在の地区に移ったと言うことである。

    2)山寺の古跡
    山寺は古跡が多く、古文書にもうかがわれる。

    〔文政3年2月熊手村書上〕
    文政3年(1820年)
    当村住古熊手村の名なし。菊竹村と言。熊崎、黒崎ともに菊竹村に属す。熊崎人家三十軒ありとかや。菊竹村は今の山寺、貞元と言。熊崎を改、熊手村と成候よし。いつれの時より熊手村と成、枝郷山寺、貞元と相成候哉、相知不申候、鳴水も当村枝郷ニ候処、元文年中引除り、一村に御立被仰付候。山寺、貞元に古跡多し。

    山寺には、王子神社、光円寺、釈迦堂、海蔵庵などがあり、光円寺、海蔵庵は新しく開けた田町へ、 釈迦堂は熊手へ移したのである。 長尾にある現在の岡田宮は宝永2年(1705年)貞元から移されたと言われている。
    貞元にあるときは、八所宮と称していた。貞元の大日堂の敷地(熊西一丁目)に岡田宮旧跡の石碑が立っている。貞元の氏神、諏訪神社も山寺の東方、松林の中にあった。現在ここには神社はなく御手洗公園になっている。

    脇息に木莬(ミミズク)一羽秋寒し

    これは昔の山寺を俳人各務支孝が謡った句である、黒崎十ニ景の一つである。

    4.近世の新地

    1)貞元御開
    三菱化成黒崎工場の敷地には大正7年まで、新地という集落があった。この新地は今から220年前洞海湾の入江を埋め立てて、できた土地である。いわゆる貞元御開の新田地である。古文書を引用すれば、宝暦12年(1762年)熊手村貞元の入江を埋めて開墾する田およそニ十三町六段余、石堤千七十間とある。
           
    〔貞元御開〕  
    宝暦十ニ年午春恩築立成就、御雇夫に而御普請に付、此辺村々よりも出る。
    土持之者恩雇に成る。石垣石は城石土手之石、並に妙見山より出る。土ハみなと畠六畝土取取費に成。右費地恩年貢は村辨に被仰付候。其後土手腹付笠上之土取費みなと中畠三畝之御年貢は、御郡辨に而相渡被申候処、寛政十午年より貞元御開反別米之内より、御渡被仰付候。御郡奉行宮川次郎左衛門様、御普請惣御裁判、御郡目附笹栗村佳平清次郎、諸賃銭御受佛御壱人に而御取斗。

    当時のようすがよくわかる。


    新地地区(大正初期頃)


    2)新地集落の形成
    貞元開作の新田地にいつ頃から、またどこから百姓が移住したのであろうか。
    「寛政六年(1794年)貞元の開作地所居合ひ、百姓直百姓となる」とある。したがって移住は新田地ができてから、32年後ということになる。
    新地の姓氏は、田中、有田、安西姓が多いことから、山寺、藤田から移住したものと思われる。昔のことだから遠くからは考えられない。
    移住した戸数はどの位だったろうか。寛政6年(1794年)15戸、大正6年(1917年)の52戸から推定すると10戸以内ではなかろうか。

    5.近代の熊西

    1)新田地の新地
    新田の区画は洞海湾の堤防に向い、至って細長い長方形の区画割りで、田のあぜ道は皇后崎の高所から眺めると、幾何学的な直線美をなしていた。
    揆川としよういち川には堤防に満潮時、海水の逆流を防ぐ唐戸が設けられ、また堤防の内側には、浸水した潮水が直接田の中に入ることを防ぐ、クリークも設けられていた。このクリークにはイナ、ウナギなどが生息し、若者衆のよい遊び場所であった(潮遊びと呼んでいた)。
    住民のほとんどが百姓で店屋が2件、銀行や役場に勤める者は2名に過ぎなかった。堤防近くは塩分に耐えるタイト米という米を作っていた。赤色を帯びたやせた細長い貧弱な粒の米で味は粗末なものであった。
    農作業の合間に堤防を走り、干潟にアサリ貝、ハゼ、カニなど魚労することは、集落人の唯一の慰安でもった。
    かくして平和な新地にも、買収移転という大きな事態が到来した。

    2)三菱合資会社の買収
    安川電機製作所設立が大正4年で、三菱合資会社が製鉄所設立のため、新地の買収に着手したのが大正6年である。6年といえば大正3年に起こった第一次世界大戦は鎮静に向っていたときである。
    当時の家屋移転の契約書が、その当時区長であった安西勇吉宅に保存してある。
    この契約書によると関係地主52名。契約は黒崎町長と会社で大正7年2月20日に締結している。またその時の会議録もあり、その経過はすこぶる興味がある。
    買収価額の決議が、交渉の進捗と共に切り下げられていることである。このことは時代の背景を物語っている。
    価額は田一坪3円30銭、宅地は田の2倍とし、是にて買収の期成立すとある。また家屋と附帯物件の移転料は、会社側見積と地主側見積の中間価額で妥結し、その総額は54,304円7銭となっている。1戸平均、1,000円余となる。

    3)新地の移転
    新地の集落が貞元と山寺の中間に移転したのは大正8年である。熊西一丁目の安西氏宅の庭園に立っている転住記念碑には、次の如くしるされている。

    大正6年遠賀郡黒崎町大字熊手字新地部落土地為三菱合資会社被買収余
    祖先永住之宅地亦在其城内玆トチ此地而転居改築家屋矣
    大正八年五月十五日 当代安西勇吉

    4)成金町の出現
    この移転は、皇后崎の一部移転を除きほとんどが貞元に移転した。今の熊西町一丁目、ニ丁目である。
    平屋のわら葺は全部瓦葺になり、玄関と勝手口のついた家を建てた。小作で農業を継続する家は本家の裏に牛小屋つきの納屋も建てた。なかには庭園をつけ、旅館向に建てた御仁もある。
    その頃黒崎の人びとはこの移転町を成金町と呼んだ。向山にぽつんと一軒建てで、熊西御殿といわれた豪華な建物がある。現在は三菱化成の光亮寮(会社のクラブ)になっている。門構え、庭園は当時の面影を今も残している。

    5)小作で農業を続ける
    大正7年に世界大戦は休戦となり、三菱の製鉄所建設はやむなく中止され、昭和10年タール工場が建設されるまでの15年余りの間、小作して農業は続けられた。
    大正14年、枝光の三菱の会社である旭硝子に小作料として玄米78俵を搬入した記録が安西氏宅にある。小作契約書には米の時価相場の金額で納めたことは時代を物語っている。
    買収後も15年ひきつづいて農業を営むことのできた戸主は他に職を求める必要もなく、一生を農業で終わった。もちろん後継者は農業の家業から離れ、新時代の職業について行くことになる。

    6.神社と旧跡

    1)一宮神社
    山寺にある。山寺の王子神社、貞元の諏訪神社、新地の大歳神社を区画整理により合祀、昭和15年8月王子、諏訪のニ社合祀、25年6月大歳三社合祀。

    2)皇后崎
    皇后崎は神功皇后が洞海で船をつなぎ止められたところだといい、帆柱山で伐った帆柱をここで立てたともいう。神功皇后は説話の人物。皇后崎は字小名。

    3)御手洗清水
    山寺にある。西区役所の西側、御手洗公園となっている。そのいわれ、山寺の東ニ町にあり、八所神社旧社の神井なり。方一間、深ニ尺冬は温にして、夏は冷なり。其甘美なる次類ひ少し・・・・・・・。

    4)十三塚
    現在、北九州市西部の墓地になっている。十三塚として小さき塚十三有。現在見当らず。

    5)岡田神社旧跡碑
    熊西一丁目、大日堂敷地にある。

    7.無形民族文化財

    1)黒崎祇園行事
    黒崎祇園は岡田宮の末社である熊手須賀神社と、春日神社の末社である藤田須賀神社の祭礼として藩政時代から行われている。毎年7月18日・19日それぞれの町内で組み立てられた笹山笠は、お汐井とり行事がすむと人形飾り山笠に衣替えし、21日熊手御神幸、22日藤田御神幸が行われ、最終日の23日は各山笠が1ケ所に勢ぞろいする。祇園ばやしは大太鼓・小太鼓・鉦のほかにほら貝が入り独特の調子をつくっている。(昭和43年2月3日指定)

    2)火魔封火打釘 古武道保持 前田 勇氏
    この火魔封火打釘は福岡藩に代々伝えられてきた鎮魂行事である。祭祀の執行者は歴代藩中の武術に長じた人物で、特に手裏剣の名手があてられた。豊前の豪族・宇都宮一族への鎮魂に始まるこの行事も、年代の経過とともに家運長久、国内安泰、古武道保持の行事へと変化しているが、我が国古来の魔払い行事の一形式を残す特異な行事である。(昭和51年5月15日指定)